小川監督との一夜

1980年代の後半、今にして思えば小川伸介監督の遺作となった「1000年刻みの日時計」という映画の自主上映に向けて、秋田市で試写会が行われたことがあった。その際、小川監督とチーフ助監督の飯塚俊男さんも来秋し、上映終了後、当時ぼくが経営していた飲み屋に一緒に来てくれたのだった。上映会場からぼくの店に流れてきたのは、試写会の主催者だった書店主の友人と、秋田大学の映画研究会の学生が数人だけだったように記憶している。

映画が好きなぼくにとって、小川紳介は尊敬する映画監督のひとりであった。だからぼくと友人は、とにかくあの小川監督と会って話ができるということだけで興奮しているのに、映研の学生は「エッ、このオッサン、そんなにエライ監督なの?」といった風でポカンとしていた。彼らにしてみれば、三里塚闘争など赤ん坊のころの話だから無理もないことであったろう。ところが、実際に会って話をしてみた印象も、数々の記録映画から勝手に想像していたような闘う映画作家などという風貌や物言いとは無縁の、どこにでもいるおしゃべり好きなオッサンそのものなのである。ただ、普通のオッサンと違うところは、話の内容が徹頭徹尾映画のことばかり、ということだった。 

その時に話した内容を、今では断片的にしか思い出せないが、ロッセリーニのイタリアン・ネオリアリズモやゴダールのヌーベルバーグは当然としても、アメリカのハリウッド映画やルーカス、スピルバーグからカルト的な作品まで、とどまるところを知らなかった。小川監督が語る映画は全く観念的ではない。フィルム編集を、カット割りのリズムを、照明のあり方を、カメラワークを細密に論ずるのである。それを、まるで映画が好きで好きでたまらない子供のように語る。こんなにも映画が好きな人がいる! そのことにぼくはあっけにとられ、同時に大きな感動を覚えたのだった。

平成4年(1992)、55歳の働き盛りで小川監督が亡くなった時は、何よりも映画的な損失のはかりしれない大きさを思った。と同時に様々な雑誌に載った小川監督の追悼文には、次のように必ず故人が無類の映画好きであったことが書かれてあり、ぼくの店で映画論をとうとうとしゃべり続けたあの夜のことが思い出されてならなかった。

「これまでわたしは多くの映画監督と親しくしてきたが、小川紳介ほどの映画好きの人をほかに知らない。会えばひたすら映画のことをものすごい勢いでしゃべった」(山根貞男
「小川君とは岩波映画で一緒だった。話はあくまで映画である。小川君の語り口には一瀉千里の勢いがある。いかつい顔に似合わず美声だった」(黒木和男)
「初めて会って驚かされたのは、彼がいきなり、ロッセリーニの『イタリア旅行』の車の移動の話を始めたことである。それも、きわめて具体的な技術に関わる話だった。映画監督というものは、当然ながら映画が好きなものではあるが(といっても、中にはそうでない人もかなりいる)、それでも、自分が撮ったばかりの作品でないもののディテールを、いきなり話始める人というのは、滅多にいるののではない」(上野昂志)

小川監督はドキュメンタリー映画の作家としての枠組みで語られていたが、1980年代に作られた「ニッポン国・古屋敷村」、「1000年刻みの日時計」では、ドキュメンタリーとかフィクションとかの境界を超えて、全く新しい映画の領域に踏み込んでいた。そこでぼくは、劇映画を撮る予定はないのかとか、記録映画における虚と実のバランスとはなどと、随分ぶしつけな質問をしたことを覚えている。そんな生意気で失礼な質問にも、決して怒ることもはぐらかすこともなく真摯に丁寧に答えたくれたことも、ぼくを感激させた。後にも先にも、あの夜ほど自分の店の空間が好ましく思えたことはなかった。

(2001年記す)